社会なんて知らない

高校なんてない

物を送るということ。

 物を送るということは時間を届けるということ。
時間をかけて何をプレゼントするか考え、相手に会って渡し、相手がそのプレゼントについて考える。送る人は相手がどうやったら喜ぶか、相手の趣味嗜好を考慮し、最善だと思われるプレゼントを用意する。

 プレゼントは買ったものだったり送る人自身が作ったものだったり、もしかしたら貰い物をあげるかもしれない。例えばバレンタインデーで、貰いすぎたチョコを友人に渡すというように。
その全ての過程は、当たり前だけど時間をかけて行われる。本当に当たり前だけど、自分の時間を割いて、相手の時間も割いてもらいながらプレゼントを渡す。受け取る。受け取ったときの感情が心の中を巡る。人が、人と直接会って生み出される感情ではなく、物を受け取って見て聞いて嗅いで触って食べてわかる感情。物を介して、人と人が繋がる。直接人に会って言うと躊躇してしまうようなことも、物だとオブラートに包みながら伝えられるかもしれない。自分がこんなに相手が好きだということを、プレゼントを介してならば伝えられるかもしれない。本当に伝えたいこと全て、100%を相手が理解できる保証は無い。けれど物は存在する。送り手、受け取り手の感情はどうであれ、物はそこに変わらず居続ける。二千年前の人が作った土器も、変わらず保管され鑑賞される。物は人と違い、裏切らない。けれど、物を通じて自分の心に浮かび上がってくる感情は本物なのだ。


 物に追随する感情が人それぞれに違うということ。
人は薄っぺらい。人と会って会話すると、薄っぺらく感じてしまうのだ。自分ひとりでいる時間が長すぎて、長すぎて長すぎて長すぎて、人と会うのがなんだか現実味が無いような気がする。一人でいることが準備運動で、人と会うことがまるでボス戦かのようだ。女性だったら男性に良く思われたくて一人でネイルしたりお化粧したり髪をアレンジしたりする。それを全て一人でする(店でやってもらうこともあるが、それでも自身がやりたいと思っている一人の作業だ) そして意中の男性と会うとき、それが私にとってのボス戦。自分磨きなんてお洒落な言葉を使うが、つまり自分磨きが準備運動である。私はその準備運動がとても長く感じる。そして私にとってのボス戦もまだまだたくさんある。先程の意中の男性と会うときもそうだが、ネイルしてもらう時や美容院に行くときもそう、お店に行くこと学校に行くこと仕事に行くこと。人と会うことが全てボス戦なのだ。自分磨きという準備運動をするために美容院というボス戦に行く。私にとってはそういう感覚なのだ。
最初の話に戻るが、人は薄っぺらい。準備運動が長すぎて人が薄っぺらく感じてしまう。けれど物は違う。物はそこに存在する。物は私の感情について何も言わない。何も意見してこない。映像なら映像を、食べ物なら食べ物が、そこに在るだけなのだ。もちろん作り手は受け取り手を想って作ったのかもしれないが、物自体にはなんの感情も付随していない。ただそこに、その時間に、その空間に、その地面の上に、重力を受けながら存在しているだけ。それが、私にとってはとてつもなく楽でとてつもなくしんどい。物自体は楽なのだ。可愛かったりかっこよかったりお洒落だったり、プラスの感情が渦巻く。物を送ってきた人のことを考えるのがしんどい。学校の嫌いな先生から色々あって貰ったイギリス土産のお菓子のお洒落な空き缶だったり、付き合っている彼女からのイヤリングだったり、自殺した兄が買ってきてくれたトートバッグだったり。人のことを考えるのがとてもしんどい。でも相手はそう考えてないかもしれない。相手を想ってプレゼントする、それは良い。私はそれだけをしたい。物を受け取りたくない。怖い。受け取った物が部屋にあることが怖い。一人でいるのに、物が在るだけで送ってきた人のことを考えてしまう。自分の領域が侵略されてしまう。自分の部屋もそんなものが多い。本棚も机も椅子もベッドのスプリングにいたるまでそれを送った・買ってくれた人のことを考える。要するに人が怖い。だけど物は安心する。
「罪を憎んで人を憎まず」と言う。私は「人を憎んで物を憎まず」だ。送ってくれた人を私は恨む。憎む。怖い。嫌いだ。だけど物は、私を否定しないのだ。人は怖い。
今もパソコンの隣に彼女から貰ったハンドクリームがある。可愛らしい、チェリー柄のパッケージのハンドクリーム。前に彼女とウインドウショッピングをしたときに私が「これ可愛い!」と言ったものだ。それを彼女が覚えていてくれて誕生日にプレゼントされた。
怖い。怖い怖い怖い。彼女も家族も心療内科の先生も、誰もが怖い。不安だ。けれど現代社会は原始時代とは違い、自然は少なくなり生産された物で溢れかえっている。怖い。何もかもが不安で仕方がない。
今日も処方された薬を呑んで眠りにつくが、これを処方した先生のことも考えると怖くなる。人と会うこと、喋ること、その会話や場面を記憶することは恐ろしい。何も考えたくない。
物は、現代社会における私の唯一の安全地帯であるが、貰った物は私にとっての手榴弾だ。こうして夜になると不安が爆発する。
当たり前のようにある物が、当たり前のように怖い。「とかくに人の世は住みにくい。」昔の文豪の言った通り、生きるのはつらすぎる。
けれど、物が存在する限り、人がいる限り、私のこのつらさは無くならない。日常的にある物が、人が、いる限り。

物を送るということ

 物を送るということは時間を届けるということ。
時間をかけて何をプレゼントするか考え、相手に会って渡し、相手がそのプレゼントについて考える。送る人は相手がどうやったら喜ぶか、相手の趣味嗜好を考慮し、最善だと思われるプレゼントを用意する。プレゼントは買ったものだったり送る人自身が作ったものだったり、もしかしたら貰い物をあげるかもしれない。例えばバレンタインデーで、貰いすぎたチョコを友人に渡すというように。
その全ての過程は、当たり前だけど時間をかけて行われる。本当に当たり前だけど、自分の時間を割いて、相手の時間も割いてもらいながらプレゼントを渡す。受け取る。受け取ったときの感情が心の中を巡る。人が、人と直接会って生み出される感情ではなく、物を受け取って見て聞いて嗅いで触って食べてわかる感情。物を介して、人と人が繋がる。直接人に会って言うと躊躇してしまうようなことも、物だとオブラートに包みながら伝えられるかもしれない。自分がこんなに相手が好きだということを、プレゼントを介してならば伝えられるかもしれない。本当に伝えたいこと全て、100%を相手が理解できる保証は無い。けれど物は存在する。送り手、受け取り手の感情はどうであれ、物はそこに変わらず居続ける。二千年前の人が作った土器も、変わらず保管され鑑賞される。物は人と違い、裏切らない。けれど、物を通じて自分の心に浮かび上がってくる感情は本物なのだ。



 物に追随する感情が人それぞれに違うということ。
人は薄っぺらい。人と会って会話すると、薄っぺらく感じてしまうのだ。自分ひとりでいる時間が長すぎて、長すぎて長すぎて長すぎて、人と会うのがなんだか現実味が無いような気がする。一人でいることが準備運動で、人と会うことがまるでボス戦かのようだ。女性だったら男性に良く思われたくて一人でネイルしたりお化粧したり髪をアレンジしたりする。それを全て一人でする(店でやってもらうこともあるが、それでも自身がやりたいと思っている一人の作業だ) そして意中の男性と会うとき、それが私にとってのボス戦。自分磨きなんてお洒落な言葉を使うが、つまり自分磨きが準備運動である。私はその準備運動がとても長く感じる。そして私にとってのボス戦もまだまだたくさんある。先程の意中の男性と会うときもそうだが、ネイルしてもらう時や美容院に行くときもそう、お店に行くこと学校に行くこと仕事に行くこと。人と会うことが全てボス戦なのだ。自分磨きという準備運動をするために美容院というボス戦に行く。私にとってはそういう感覚なのだ。
最初の話に戻るが、人は薄っぺらい。準備運動が長すぎて人が薄っぺらく感じてしまう。けれど物は違う。物はそこに存在する。物は私の感情について何も言わない。何も意見してこない。映像なら映像を、食べ物なら食べ物が、そこに在るだけなのだ。もちろん作り手は受け取り手を想って作ったのかもしれないが、物自体にはなんの感情も付随していない。ただそこに、その時間に、その空間に、その地面の上に、重力を受けながら存在しているだけ。それが、私にとってはとてつもなく楽でとてつもなくしんどい。物自体は楽なのだ。可愛かったりかっこよかったりお洒落だったり、プラスの感情が渦巻く。物を送ってきた人のことを考えるのがしんどい。学校の嫌いな先生から色々あって貰ったイギリス土産のお菓子のお洒落な空き缶だったり、付き合っている彼女からのイヤリングだったり、自殺した兄が買ってきてくれたトートバッグだったり。人のことを考えるのがとてもしんどい。でも相手はそう考えてないかもしれない。相手を想ってプレゼントする、それは良い。私はそれだけをしたい。物を受け取りたくない。怖い。受け取った物が部屋にあることが怖い。一人でいるのに、物が在るだけで送ってきた人のことを考えてしまう。自分の領域が侵略されてしまう。自分の部屋もそんなものが多い。本棚も机も椅子もベッドのスプリングにいたるまでそれを送った・買ってくれた人のことを考える。要するに人が怖い。だけど物は安心する。
「罪を憎んで人を憎まず」と言う。私は「人を憎んで物を憎まず」だ。送ってくれた人を私は恨む。憎む。怖い。嫌いだ。だけど物は、私を否定しないのだ。人は怖い。
今もパソコンの隣に彼女から貰ったハンドクリームがある。可愛らしい、チェリー柄のパッケージのハンドクリーム。前に彼女とウインドウショッピングをしたときに私が「これ可愛い!」と言ったものだ。それを彼女が覚えていてくれて誕生日にプレゼントされた。
怖い。怖い怖い怖い。彼女も家族も心療内科の先生も、誰もが怖い。不安だ。けれど現代社会は原始時代とは違い、自然は少なくなり生産された物で溢れかえっている。怖い。何もかもが不安で仕方がない。
今日も処方された薬を呑んで眠りにつくが、これを処方した先生のことも考えると怖くなる。人と会うこと、喋ること、その会話や場面を記憶することは恐ろしい。何も考えたくない。
物は、現代社会における私の唯一の安全地帯であるが、貰った物は私にとっての手榴弾だ。こうして夜になると不安が爆発する。
当たり前のようにある物が、当たり前のように怖い。「とかくに人の世は住みにくい。」昔の文豪の言った通り、生きるのはつらすぎる。
けれど、物が存在する限り、人がいる限り、私のこのつらさは無くならない。日常的にある物が、人が、いる限り。